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極右政治家のジャンマリー・ルペン氏が死去、96歳

極右政党RNの前身である「国民戦線(FN)」を率いた政治家のジャンマリー・ルペン氏が7日にパリ郊外で死去した。96歳だった。家族が同日に発表した。

ルペン氏は1928年にブルターニュ地方で生まれた。戦後にパリへ出て法学を学び、弁護士となって政治活動に入った。1956年に、当時のポピュリズムの指導者だったピエール・プジャド氏の政党から公認を得て27歳で下院議員に初当選。その後、軍隊に入り、1957年にはフランスの植民地防衛という立場でアルジェリア独立戦争にかかわった。その後、政治活動に復帰したが、1960年代にかけては不遇の時期が続いた。1972年には、極右勢力の糾合により発足した「国民戦線(FN)」に初代党首として合流。内紛の激しい極右勢力の中で政治活動を続けた。1980年代に入り、ミッテラン左派政権下で、一部の市議会選や欧州議会選挙で勢力を伸ばして全国区の認知を得た。ナチスドイツの礼賛やビシー政権(第2次世界大戦下のドイツとの協力政権)の擁護、ユダヤ人・外国人の排斥などの基本的な姿勢は変わることなく、挑発的な言説を展開して注目を得るという手法で、憎まれっ子として足場を築いた。1990年代には、相次ぐ内紛に見舞われながらも党勢の拡大に成功。2002年の大統領選挙では第1回投票で2位となり、現職シラク大統領(保守)と決選投票を争うという「快挙」を達成した。しかし、激越な人柄が仇となって有権者の支持を広げることはできず、ジャンマリー・ルペン流のやり方の限界も明らかになった。その後、「普通の党」としての認知獲得を目指す実娘のマリーヌ・ルペン氏との間での勢力争いに敗れて、2010年代半ばには主導権を失った。国民戦線は2018年にはRN(国民連合)に改名。マリーヌ・ルペン氏の下で同党は現在では下院でも最大規模の勢力の政党となっている。ジャンマリー・ルペン氏が掲げた「外国人排斥とフランス優先」の掛け声は、かつてないほど有権者に訴求力を発揮しているが、病気もあり、同氏はこの数年は公の場に姿を見せることはなかった。

マリーヌ・ルペン氏は訃報を訪問先の海外県マヨットで受けた。マリーヌ・ルペン氏とRNにとっては、いわば「不良債権」扱いのジャンマリー・ルペン氏の死は好都合であり、情に訴えて従来のファンを維持しつつ、過去は払しょくして「普通の党」アピールを続けることになるだろう。マクロン大統領は同日、「我が国の政治に70年近くにわたり一定の役割を果たした人物であり、その評価は歴史の判断にゆだねられることになった」とのコメントを発表。バイルー首相は、「様々な論争はともあれ、ルペン氏はフランス政界の一人物であった」とコメントしたが、このコメントについては、ルペン氏に好意的すぎるとする批判の声が一部から上がっている。他方、同日夜には、パリのレピュブリック広場など一部都市でルペン氏の反対派による「祝賀集会」が開かれた。