二代目事務局長の頃の追憶


私が事務局長であった1975年~1981年の日仏経済関係は結構荒れた面もありました。
71年に1ドル=360円で金にリンクしていたドルが230円まで円高フロートした脱ブレトンウッズ体制に対応する時代でした。つまり貿易には在フランス日本企業は最新の注意が求められたのです。
そして73年には第一次オイルショックがあり、石油資源が少なかった日本もフランスも大慌てでした。特に石油高等の直撃でインフレが大変でした。幸いに日本では1~2年でインフレを必死で抑えましたが、フランスは75年~76年になってもまだもたもたしていました。その分日本は輸出に有利になった訳です。
 以上の二大激動を上手く切り抜けて日本企業はフランス市場に強い関心を持つようになり、駐在員事務所、或いは現地法人の数が毎年1~2割増えてきました。
ジョイント・ベンチャーによる日本メーカーも地道に増え、キヤノンや味の素が良い例でしたが、私は密かに心強く思っていました。
お陰でそれまで苦しかった会議所の決算を胸をはって報告できるようになりました。
その余裕をバックにガイド・ブックを製本できました。
フランスの労働法、社会保障法を専門家によって日本語にして本格的に編集したものです。フランス人の社員に対応するためのセイフティ・ガイドとして切に会員から求められたものでした。

 しかし、日本製品の進出を心好からぬ思いで警戒する雰囲気が英、独、仏を中心に出てきました。土光経団連ミッションの訪欧時、まずイギリスで、次にドイツで経済界の不満が噴出しました。感情的なプライドやジェラシーも混じった厄介な動きでした。
一番うるさ型のマインドのフランス人にはその前兆がすでにありました。その前兆を感知した会頭をはじめとして理事の皆さんの判断も良かったと思います。
C.N.P.F.(フランス経団連=現在のMedefの前身)と当会議所の間で「タスク・フォース」という意見交換の場を作っていました。
フランスでは土光会長をやぶから棒に驚かせるようなことにはなりませんでした。
このタスク・フォースの他に、パリ、ボルドー、リヨン、アヌシー、コニャック等の地方会議所や経済人との間に日仏交流の講演・説明会をオーがナイズしました。
当会議所から多忙の中を出張していただいて、不満一つひとつ拾いながら情報交換をしました。

以上随分と勉強させてもらいましたが、今となれば懐かしい想いです。

 

 

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